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2・恋かもしれない……。 Page3

last update 最終更新日: 2025-03-05 10:00:01

   * * * *

「――琴音先生、お待たせしちゃってゴメンなさいっ!」

 三十分後。私は洛陽社にほど近い神保町のセルフ式カフェの店内で、待っていて下さった琴音先生にペコッと頭を下げた。

 今日は土曜日なので、満員電車が苦手な私は電車を二、三本遅らせた。そのせいで着くのが遅くなってしまったのだ。

「ああ、いいって。気にしないでよ。あたし今日はヒマだって言ったじゃん? とりあえず、そこ座ったら?」

 琴音先生はあっさり私のことを許してくれて、向かいの空(あ)いている席を勧(すす)めてくれた。

 西原琴音先生はモデルさんみたいにスラリと身長が高くて、スタイル抜群(バツグン)。でも全く気取ってなくて、優しいお姉さんという感じの女性だ。

 私はアイスカフェラテとガムシロップの載(の)ったトレーをテーブルに、バッグを椅子(いす)の傍(かたわ)らに置き、勧められた席に着(つ)いた。

 琴音先生の前には、白いカップが置かれている。中身はカフェオレかな?

 今は四月なので、温かい飲み物にしてもよかったのだけれど。私は猫(ねこ)舌(じた)なので、熱いのが苦手なのだ。

「――それでナミちゃん。電話で言ってた相談ごとってどんなことなの?」

 私が席に着き、落ち着くのを待ってから、カップを両手で持った琴音先生が話を促(うなが)す。

「えーっと、実は……恋バナ……なんですけど……」

「うん」

 彼女が私の顔をまっすぐ見て〝聞く姿勢(しせい)〟に入ってくれたので、私は全てを話すことにした。

 ずっと「苦手」だと感じていた原口さんのことが、気になっていること。彼のSな発言がちょっと楽しみになっていること。

 でも、過去に経験したことがないから、これが〝恋〟なのかどうか自信がないこと。

 これから先、彼にどんな顔をして会えばいいのか悩んでいること……。

「――あの、まず一つ確認していいですか? これって〝恋〟……で間違いないんですよね?」

「え、まずそこからなの? ……うん。それはもう〝恋〟で間違いないよ。原口クンのこと、異性として意識し始めてるんなら」

「原口……〝クン〟?」

 私は琴音先生の答えよりも、原口さんへの呼び方が気になった。

 どうしてそんな親(した)しげな呼び方ができるんだろう? と思うのは、気にしすぎかな?
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    「ああ、ゴメンね! あたしの方が年上だからさ、ついつい馴(な)れ馴れしく呼んじゃうの。別に特別なイミはないから気にしないでね」 ……あ、そうか。琴音先生より原口さんの方が二つ年下なんだっけ。 でも彼女はオトナの女性だから、たとえ何かあったとしても、隠(かく)したりはぐらかしたりするのもうまそうで油断(ゆだん)できない。 とはいえ、私は別に彼女と原口さんとの仲を勘(かん)繰(ぐ)るつもりなんてないけど……。「――あ、話戻しますね。私、苦手な相手を好きになった経験なくて……。琴音先生、そういう経験ありますか?」 年齢(ねんれい)だけでもわたしより七つ年上なうえに、彼女は私より大人の色気もある。恋愛経験だって、確実に私より多いはず。 ――というか、訊(き)いてしまってから「私ってばなんて野暮(ヤボ)な質問をしてるんだろう」と思ったけれど。「苦手な人を好きになった経験? うん、あたしにも経験あるよ」「ほっ、ホントですか!?」 私は思わず,テーブルから身を乗り出す。こと恋愛に関しては百戦(ひゃくせん)錬磨(れんま)だと思っていた琴音先生に、苦手な男性がいたなんて……!「そんな驚(おどろ)くことかなあ? あたしだって、昔から男慣れしてたワケじゃないよ」 琴音先生は苦笑いしてから、私に経験談を話してくれた。「もう六年も前の話だよ。あたし、就職してから一年で今の会社に変わったの。その時の上司が、すごく苦手なタイプの男性(ひと)でね……」 彼女はテーブルにカップを置き、遠い目をしながら頬杖(ほおづえ)をついて話し始めた。「その人ね、あたしがヘコむくらい毎日仕事にダメ出ししてきたの。それも、なぜかあたしだけにピンポイントでね。正直、『なんであたしばっかり目のカタキにするの?』って思ったし、その人のこと苦手になったの。……でもね」「〝でも〟?」 気になるところで彼女の言葉が途切(とぎ)れたので、私は続きを促すように彼女を見つめる。 琴音先生はカフェオレをまた一口飲んでから、再び口を開いた。「ある時に分かったの。その上司は、部下であるあたしへの期待と愛情から、あたしにダメ出ししてくれてたんだって。――で、その時からあたし、その上司のことが気になり始めたんだ」「あ……」 彼女の話を聞いて、私はふと思った。もしかしたら、原口さんもその上司の男性と同じな

    最終更新日 : 2025-03-05
  • シャープペンシルより愛をこめて。   2・恋かもしれない……。 Page5

    「……で、その人に想いは伝えられたんですか?」 私の問(と)いに、琴音先生は悲しげにゆっくりと首を振った。「伝えられなかった。……好きだったけど、相手は妻子(さいし)持ちだったから。その人の幸せな家庭を壊(こわ)すなんてできなかったし、あたしは想ってるだけで幸せだったからね」 失恋の悲しい思い出のはずなのに、話し終えた琴音先生はなぜかスッキリした顔をしている。 私には彼女が(もちろん私より年上なのだけれど)年齢よりずっとオトナの女性に見えた。「そうなんですか……」 そう言ってからアイスラテをストローですすった私は、別の質問をぶつけてみる。「ちなみに今、彼氏っていらっしゃるんですか?」 彼女は今もすごくモテるから、浮いた噂(ウワサ)の一つくらいはあるだろう。 ……正直、琴音先生と原口さんとの間(あいだ)に今何もないって信じたいだけかもしれないけれど。「今はいないなあ。っていうか、前の彼氏と二年前に別れて以来、あんまり長続きしないんだよねえ……。声かけてくる男はいるんだよ、もちろん」「ほえ~っ……。いいなあ。私にも琴音先生ほどの色気がほしいです」 願望が思わず口をついて出ると、琴音先生にフフッと笑われた。「何言ってんの。ナミちゃんだって十分(じゅうぶん)可愛(かわい)いし魅力的よ。さっきから、窓際(まどぎわ)の席のお兄さん、ナミちゃんのキレイなうなじに見入っちゃってるし」「えっ、ウソっ!? ……やだもう」 彼女が指さす席の方を見れば、確かに大学生くらいの若い男性が、私の首の後ろを凝視(ぎょうし)している。 私は慌てて自分の手でうなじを隠した。 ――というか、さっきから話が脱線しまくっているような……。 琴音先生もそのことに気づいたらしく、カップの中身をスプーンでかき回しながら話の軌道(きどう)修正をはかった。「――あ、ゴメン。話戻すね。……あたし、さっきふと思ったの。もしかしたら原口クンも同じなんじゃないかな、って。あたしが苦手だと思ってたあの上司(ひと)と」「……はい。実は私も同じこと感じたところです」 私の反応に、琴音先生は目を瞠(みは)った。 残念ながら彼女の上司にはお会いしたことがないけれど、その人の言動(げんどう)が原口さんと似ているなあと思ったことは事実だ。……まあ、その人にSっ気(け)があるかどうかは私の知ると

    最終更新日 : 2025-03-05
  • シャープペンシルより愛をこめて。   2・恋かもしれない……。 Page6

    「うん、そうらしいの。偶然だろうけどね。でね、その中でナミちゃんが一番若いらしいの。だから、原口クンはナミちゃんに期待してるんじゃないかとあたしは思う」「私に期待……ですか?」 私は首を傾(かし)げた。それが本当だとしたら、一体どちらの意味での〝期待〟なんだろう? 作家として? それとも別の意味で……? 「ほら、若いうちなら努力次第(しだい)でパソコンだってどうにか覚えられそうでしょ? だから期待してるのかもよ? それに」 そこでまた一度カップに口をつけてから、琴音先生は続きを言った。「ナミちゃんの作品のよさを一番理解してくれてる味方は、他でもない彼でしょ?」 琴音先生ってスゴい。私の考えてること、全部お見通しなんだもん。だから。「……はい。そうかもしれません」 私は素直に認めた。ちょっと悔(くや)しいけどその通りだと思ったから。 確かに原口さんは口うるさいしSだし、イヤミったらしい時もある。でも、彼が私の小説を貶(けな)したことは一度もないし、ダメ出しだってめったにしない。 本当はもっと褒(ほ)めたいだろうに、ダメ出しも担当編集者の仕事だからとあえて厳(きび)しいことを言ってくれているのだと、私にも分かっている。 それはもちろん私のためなんだろうし、それこそが彼が私の小説を誰よりも愛してくれている何よりの証拠(しょうこ)だと私も思う。 けれど私は、やっぱり彼のことが苦手だ。

    最終更新日 : 2025-03-05
  • シャープペンシルより愛をこめて。   2・恋かもしれない……。 Page7

    「琴音先生、人の感情って厄介(やっかい)ですよね」「えっ? どうして?」「苦手な人が急に気になり始めたり、そうかと思えば昨日まで好きだった人が急に嫌(きら)いになったり……。何ていうか、〝苦手・嫌い〟と〝好き〟の二つにハッキリ線引きっていうか、割り切れたらラクなのになあ、って」 この世の中で、移(うつ)ろいやすい人の感情ほど面倒(めんどう)なものはないと思う。もしも人の感情がキッチリ線引きできるなら、誰も悩んだり苦しんだりしなくて済(す)むのにな……。「そしたら私も、こんなに悩むことなかったのになあ、って。――あれ? 私何かヘンなこと言ってますか?」 私の話を聞き終わらないうちに、琴音先生が笑い出した。でも全然バカにしたような笑い方じゃなくて、楽しいことを発見した時みたいな笑い方、といえばいいのか――。「ううん、別に。いやあ、ナミちゃんって面白(おもしろ)いこと考えるんだねー」「……へっ?」「そりゃあ、何でも白黒(シロクロ)ハッキリ割り切れたら誰も悩まないよね。その方が気がラクだしさ。――でも、割り切れないから人って面白いんじゃないかな?」「はあ、なるほど……」 琴音先生の言うことは、実に深い。私と同じ小説家だけど、七年という人生経験の差はダテじゃないなと思う。私にはこんな考え方はできなかったから。「ねえナミちゃん。原口クンを好きになったこと、後悔(こうかい)してる?」「いいえ! 後悔なんて絶対にしません!」 私は強くかぶりを振る。それを見て、琴音先生は安心したように微笑(ほほえ)んだ。「そういうこと。ナミちゃんだって、厄介な感情があるから原口クンに惹かれたけど、それで後悔してないワケでしょ? だから人間は面白いんだと思うな」「はあ……」 琴音先生が言ったことは、私にとっては目からウロコだった。何だか心にかかっていたモヤが晴れてきた気がして、私はまだほとんど減(へ)っていなかったアイスラテを一気に半分くらいすする。 ――ところで、私には気になっていることがもう一つあった。「そういえば、根本(こんぽん)的な質問なんですけど。原口さんって独身なんですか? お付き合いしてる人は?」 琴音先生に訊くのは筋(すじ)違いかもしれない。でも、直接本人に訊ねる勇気があったら、私はこうして琴音先生に相談に乗ってもらう必要なんてないわけで。「独

    最終更新日 : 2025-03-05
  • シャープペンシルより愛をこめて。   2・恋かもしれない……。 Page8

    「そうだ。琴音先生、私はこの先、あの人とどう接したらいいと思いますか? 『好き』って気づいたのが突然だったから、この先イヤでも意識しちゃいそうで……」 私だって、恋をしたことくらいなら何度もある。けど、どうも「好き」という気持ちがモロに顔に出てしまうらしいので、いつも相手に気持ちがバレバレになってしまう。 特に、今まで意識したことのなかった相手を好きになった今回は、会うたびに原口さんのことをヘンに意識して、いつボロが出るか私自身分からないから不安なのだ。「う~ん、そうだなあ……。急に態度を変えたら、原口クンに怪(あや)しまれると思う。だからあたしがナミちゃんなら、あえて今まで通りの態度で接するけど」「今まで通りに?」 私は首を捻(ひね)った。〝今まで通りの態度〟ってどんな感じだったっけ? 何も考えずにやってきたのに、意識してやろうとすると、今までどうやってきたのか思い出せない。「そう。まあ、〝あたしなら〟の話だけど。――どう? ナミちゃん、できそう?」「あんまり自信ないですけど……」 私は考えてから、残りのアイスラテをストローでズズズッとすすった。――あんまり上品な音じゃないなと自分でも思った。「何とか頑(がん)張(ば)ってみます」「そっか」 笑顔で意気込(いきご)む私を見て、琴音先生もホッとしたようにホットカフェオレを飲んでいた(あっ、なんかダジャレみたいになっちゃった)。「――そういえば、琴音先生はどうして今日私に電話下さったんですか?」 今更(いまさら)だけれど、私は彼女に訊ねてみる。 あの電話がなければ、私は今頃まだ部屋で一人、ウダウダ悩んでいるだけだっただろうから。――まさか、私が悩んでいることを知っていたわけはないだろうけど……。「ああ。今日はたまたまこの近くで用があったんだけど、早く終わってヒマになっちゃって。作家仲間に電話しまくってたの。もち、女性ばっかりね」「へえ……」「ナミちゃんに断(ことわ)られたら、今頃は別の作家さんとお茶してたかも」「ええ……?」 なんだ、やっぱりただの偶然だったのか。 作家という職業は本来、個人事業主(ぬし)であり自由業である。こういう横の繋(つな)がりはあっても上下関係はなくて、年齢が違っても対等な立場で付き合えるのだ。

    最終更新日 : 2025-03-05
  • シャープペンシルより愛をこめて。   2・恋かもしれない……。 Page9

    「――ナミちゃん、今日は付き合ってくれてありがと。楽しかったよ。また一緒にお茶しようね」「はい! 私の方こそ、相談に乗って下さってありがとうございました。今度はぜひ、一緒にお酒飲みませんか?」「お酒か……、う~ん。あたし弱いからな。ナミちゃんは酒豪(しゅごう)だもんね。羨(うらや)ましいわ」「いや、別に羨ましがられることじゃ……」 酒豪の女って、男性から見たらどうなんだろうか? 色気がないだけなんじゃ……?「そんじゃ、またねー!」「ええ、また」 ――琴音先生と別れた後、私は彼女から聞いた話を原口さんに直接確かめてみたくなった。 彼が今、本当に独身なのかは知りたいところだけれど、そっちではなく。本当に私に期待しているから口うるさくなるのか、という方が今は知りたい。それを知ることで、私の中の彼に対する苦手意識もなくなるかもしれないから……。 私が今、洛陽社の近くにいるって分かったら、彼はビックリするだろうか――。 私はバッグの外ポケットからスマホを取り出し、原口さんのケータイに電話をかけた。『――はい』「あっ、もしもし。巻田です。お疲れさまです。――原口さん、今何なさってますか?」 会社にいるんだから、当然仕事だろうけれど。もしかしたら休憩(きゅうけい)中かもしれないし。『今ですか? 今は先生から頂いた原稿を、パソコンでゲラに起こしてるところです』 〝ゲラ〟とは、本になる前の「原稿」。つまり、作家が書いた原稿を本と同じ文字数・構成に直したもののことである。『どうしたんですか? 急に連絡下さるなんて。原稿でどこか修正したい箇所(かしょ)でも?』 わざわざ仕事中のタイミングで電話をかけたら、彼は当然そう思うだろうな。「あっ、いえ! そういうワケじゃないんです。……えっと、私いま神保町にいるんですけど」『えっ? 本当ですか?』「はい。さっきまで琴音先生とこの近くのカフェでお茶してたんです」 そこで話していた内容はともかく、それ自体は別にやましいことでも何でもないので、私は正直に話した。『琴音先生、って……。ああ、西原(さいばら)先生ですね。彼女も確か、もう脱稿してるんでしたっけ? 彼女の担当者から聞きました』 琴音先生の担当は、確か女性だったな。琴音先生に負けず劣(おと)らずの美人だったと思う。

    最終更新日 : 2025-03-05
  • シャープペンシルより愛をこめて。   2・恋かもしれない……。 Page10

    「はい、そうらしいです。私もご本人から聞きました。――ところで原口さん。私、あなたに確かめたいことがあって……」『何ですか? 〝確かめたいこと〟って』「えっと…………」「確かめたい」という気持ちはあるのに、いざ言葉にしようとすると何て訊いていいのか分からない。でも原口さんだって忙しいんだから、あまり考え込んでもいられないし……。テンパった私は頭の中が真っ白になり、次の瞬間とんでもない質問を彼にぶつけてしまった。「はっ、原口さんはど……ど……、独身なんですかっ!?」『……は?』 電話の向こうで、彼が呆気(あっけ)にとられている光景が目に浮かぶ。『ええ、まあ。僕は独身ですけど。それって仕事中の人間に訊くことですか?』「――ですよね、やっぱり」 ……ああ、やっちゃった! いきなりこんな不躾(ぶしつけ)な質問をするはずじゃなかったのに。自己嫌悪(けんお)やら恥(は)ずかしいやらで、私はプチパニックに陥(おちい)った。「すっ、スミマセン! 間(ま)違(ちが)えました! じゃなくて、えーっとえーっと…………」 落ち着いて、私(あたし)! ――大きく深呼吸をした後、もう一度スマホを耳に当てた。『……先生? 大丈夫ですか?』 私がまだパニクっていると思っているらしい原口さんが、私に怪訝(けげん)そうな、それでいて気(き)遣(づか)わしげな声をかけてくる。私はそれでやっと落ち着くことができた。「あの……、琴音先生からお聞きしたんですけど。原口さんが私に口うるさくしたり、パソコンを覚えてほしかったりするは私に期待してるからじゃないか、って。それ、ホントですか?」 私はしばらく、彼の返事を待った。『……本当ですよ。僕は先生に、一日でも早く人気作家の仲間入りをしてほしいと思ってます。そのために、時には厳(きび)しいことを言ったりもしますけど、それは全部先生のためなんです。――パソコンに関しては、先生ご自身も少しずつ練習されてると聞いて安心しましたけどね』「私のため……ですか」 彼はただのイヤミーで口うるさいだけの人じゃなかった。私のことを、そこまで考えてくれているなんて……。少し彼のことを見直した。『最初から〝できない〟って諦めてしまう人は、何も進歩しません。でも先生は完全に諦めたわけじゃないですよね? 毎日少しずつでも努力していれば、いつか必ず努力

    最終更新日 : 2025-03-05
  • シャープペンシルより愛をこめて。   2・恋かもしれない……。 Page11

    『僕は口ベタで不器用なもんで、言い方がイヤミったらしくなったり、Sっ気発揮(はっき)したりしますけど。いつも不愉快(ふゆかい)な想いをさせてすみません』「……はあ」 …………自覚あったんだ、原口さん。「いえ別に。私は気にしてませんから、大丈夫です」 その言葉にウソはない。でも、むしろそのバトルを楽しんでいることをここで言えば、「先生ってM(エム)なんですか?」って言われそうだから、あえて言わない。「――あっ、お仕事中に長々と、ゴメンなさい! 私、あなたの期待に応えられるかどうか分かりませんけど、いつか絶対に人気作家になってみせますから!」『先生……』「本になるの、楽しみにしてますね。――じゃ,失礼します」『はい』 原口さんの返事を聞いてから、私は終話ボタンをタップした。彼が言ってくれたことが、今も私の耳には強(つよ)く残っている。 ――毎日少しずつでも努力していれば、いつか必ず努力は身を結ぶ――。 ……うん、そうだよね。きっとそう。私はなぜか、その言葉を何の反発もなしにすんなりと受け入れることができた。 私はまだデビューして三年目の、〝人気作家〟には程(ほど)遠いひよっこ作家だ。ベストセラーの一つもまだ世に送り出せていない。でも、「一作でもいい作品(モノ)を書こう」と思って努力を続けていったら、私もいつかは人気作家の仲間入りができるようになるんだろうか? 原口さん(あの人)の期待に応えられるような作家に。 でもその時には、彼に一緒にいてほしい。彼が側(そば)にいて励(はげ)まし続けてくれたら(たとえSっ気を発揮していても)、私は努力することを苦痛に思わないから。「……私、やっぱり原口さんのことが好きみたい」 私は改めて、自分の中に芽生えた彼への想いを自覚した。 だって、彼の言葉一つ一つでこんなにも一喜(いっき)一憂(いちゆう)しちゃうんだもん。これが〝恋〟じゃないなら、一体何だっていうんだろう? 考えてみたら、今までに経験してきた恋と何も変わらない。ただ、相手がちょっと苦手な人ってだけじゃない! 何を戸惑う必要があったんだろう? ――この恋は恋愛小説家の私にとって、これから先のターニングポイントになる。 私はこの時、なぜかそんな予感がしていた――。

    最終更新日 : 2025-03-05

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  • シャープペンシルより愛をこめて。   6・伝えたい想い Page7

    「それはさあ、〝新たな試み〟ってヤツなんじゃないの? 〈ガーネット〉と違って作家の素顔も知ってもらおう的(てき)な」「あー、なるほど」 美加がどうして作家業の私以上に出版業界の内情に詳しいのかはさておき、彼女の推理はあながち間違ってないかもと思った。 〈ガーネット〉は秘密主義のレーベルで、作家のプロフィールは顔写真も含めてほとんど公開されていない(知り合いがファンなら顔を知られていても不思議はないけど)。 だから、作家がファンと直接触れ合える機会(サイン会とか)もない。原口さんにはそれも不満だったんじゃないかと思う。「――さて、じゃインタビュー始めるね」 私はバッグからプロット用ノートとペンケースを取り出し、ノートのページを開く。「オッケー☆ で、どんなこと聞きたい?」「えーっとねえ。美加から見て、私ってどんな子だったと思う?」 お父さんとお母さんにも同じ質問をしたけれど、親と友人とでは見え方も違うと思う。「そうだなぁ……。〝まっすぐ〟っていうか〝猪突(ちょとつ)猛進(もうしん)〟っていうか。いつも夢に向かって一直線な感じだったね」 それ、両親とほぼ同じ答えだよ。――私はシャープペンシルを握ったまま固まった。「あー……そう。他には?」 せっかくのインタビューなんだし、もっと別の言葉が聞きたい。「うーんと、読書好きで、いつも何か書いてたよね。わき目もふらずに作家になることばっかり考えてるなあ、ってあたし思ってた」「それって褒めてるの? 貶してるの?」 私は書き留めようとした手を止め、口を尖(とが)らせた。「いや、もちろん褒めてるんだよ? アンタのそういうところ、羨ましいなあって思ってた。あたしも負けてらんないなあって」「……そうだったんだ。そりゃどうも」 一応褒め言葉らしいので、私はそれをノートに書き留めた。 〝いつも夢に向かって一直線〟 〝読書好きで、いつも何か書いていた〟 いざ文字にしてみると、自分のこととはいえ何だか照れ臭い。でも、これが自分を俯瞰するってことなのかもしれない。「――そういや、どうでもいいんだけどさ。奈美って今でも原稿手書きなんでしょ?」「……? うん、そうだよ?」 何を今更。美加は前から知っているはずなのに。「じゃあさ、大学の卒論(そつろん)は?」 卒業論文……。確かにあれが教授に認められ

  • シャープペンシルより愛をこめて。   6・伝えたい想い Page6

    「電話した時にちゃんと説明すればよかったね。――今日私が美加に訊きたいのは、昔の私自身のこと。この結婚式場とは何の関係もないの」「ほえ……、〝取材〟ってそういうこと。あたしはてっきり、ウェディングプランナーがヒロインの話でも書くのかと」 ……おっ。美加、ナイスパス! まさかこんなところで小説のネタをゲットできるなんて! 私は内心ガッツポーズを作りつつ、話をさりげなく元に戻した。「その案は次の機会に使わせてもらうけど。――実は私、八月にエッセイを出版することになって。今日もお昼まで実家にいて、両親に話聞いたりしてたの」「なるほどねー、〝過去の自分への取材〟ってワケか。それであたしを訪ねてきたんだねー」 美加は私を、事務棟の中にある小さなカフェスペースに連れてきた。「ここね、あたし達スタッフが休憩取ったり仕事の打ち合わせに使ったりしてるの。ここでならゆっくり取材できるでしょ?」「うん。ありがと、美加」 ここには椅子もテーブルも備(そな)わっている。ベンチで横並びよりはゆったりと話を聞けそうだ。「――じゃああたし、自販機で飲み物買ってくるよ。アイスカフェオレでいい?」「うん」 ホットにしなかったのは、彼女も私が猫舌なのを覚えてくれていたからだろう。「――お待たせ。あたしも同じのにした」 美加は紙コップを二つ、テーブルに置く。「ありがと。……あ、お金――」 私は財布の小銭入れを探(さぐ)った。せっかく取材を受けてくれるのに、取材費は払えないからせめてコーヒー代くらいは返さないと。……と思ったけれど。「あー、いいよいいよ。それより、エッセイの話、詳しく聞かせてくんない?」 美加はやんわりとそれを断り、私の向かいに座って自分の分の紙コップを引き寄せた。 私もアイスカフェオレを一口飲み、今回エッセイ執筆を依頼された経緯を話した。「――ふーん? 出版業界もけっこうブラックなんだねえ。原口さんって編集者さん、なんかかわいそう」 美加は何でもズケズケ言う性格(タチ)なので、圧力をかけてきた蒲生先生に怒っているのかと思いきや、意外にも原口さんに同情的な感想を漏らした。「でもさあ、転んでもタダじゃ起きない人みたいだね。異動を逆(さか)手(て)に取って、新しいレーベル始めちゃうなんてスゴいよねー」「うん、それは私も思った」 パワハラに屈するどこ

  • シャープペンシルより愛をこめて。   6・伝えたい想い Page5

     実家を出たその足で電車を乗り継ぎ、私は新宿にある美加の職場へ。 ――ジューンブライドにはまだ早いけど、結婚式場のチャペルには式を挙(あ)げている幸せそうなカップルと、彼らを祝福する大勢の参列者がいた。 今日がいいお天気でよかった。人生の新たなスタートを切った二人の未来が明るいものになるようにと願いつつ、私は美加が働いている事務棟(とう)に入っていく。「――あ、奈美! 今日は来てくれてありがと! 待ってたよ~!」「美加ー! 久しぶり~~っ!」 エントランスで待ってくれていた美加と私は、ここが彼女の職場だということも忘れて会った瞬間に抱き合った。時間が一気に高校時代に戻った気がする。「奈美、元気そうだね。本読んでるよ、あたし!」「ありがと、美加! 仕事中にゴメンね!」 結婚式場のユニフォームである紺色のスーツを着ている彼女はすごく誇らしげだ。首元のオレンジ色のスカーフが眩しい。「いいってことよ☆ 上司にはちゃんと言ってあるから。『今日、作家の巻田ナミ先生が取材に来るんです』って」「美加ぁ~……」 確かにその通りなんだけど、お願いだからハードル上げるのはやめてほしい。「ウチのチーフがね、巻田ナミの大ファンでさ。奈美が来るって聞いた途端にテンション上がりまくっちゃって」「へえ、こんなところにも私のファンがね」 親友の上司も私の本を読んでくれているなんて。世間(せけん)って狭いというか何というか。「っていうかあたし、奈美が一人で来るなんて思ってなかったよー。てっきりついでに彼氏でも紹介してくれるもんだとばっかり」「いないよ、彼氏なんて」 私はキッパリ否定した。というか、どこの世界に恋人を取材に連れてくる作家がいるんだろうか。……いや、探せばいるかもしれないけど。「だってさあ、アンタのその格好がなんか気合入りまくってるから」「あー、そういうことか」「……は?」 さっき実家で、「予定がある」って私が言った時に両親が「デートか?」ってやたら騒いでいた理由がやっと分かった。 私が今日着ているのは七分袖のフワッとしたカットソーに白のチノパン、そしてスニーカーではなく若草色のフラットパンプス。実家に帰るだけならまだしも、「取材だから」とやたら気合を入れてめかし込んできたら、誤解を生んでしまったらしい。「ううん、こっちの話。――あ、そうそう

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    「いや、〝迷惑〟なんてとんでもない。その頑固さがあったから今のお前がいるんだろ? もし父さんの言いなりになってたら、お前は今頃悔(く)やんでたんじゃないか」「……うん、そうかもね」 私は元々、刺激のない毎日も、誰かに使われるのも好きじゃない。性(しょう)に合わないのだ。 普通に就職して会社勤めをしていたら、確かに安定はしていたと思う。毎月キチンとした収入が入り、正規雇用で将来も安泰(あんたい)。 でも私は、誰かのご機嫌(きげん)伺いをしながら退屈な毎日を送るなんてまっぴらごめんだった。やりたいことがあるなら、それを仕事にするのが一番いい。生活は大変だけど、認められた時の喜びは大きいしやり甲斐もある。「私、作家になったこと後悔してないよ。楽しいことばっかりじゃないけど、自分が選んだ道だもん」「そうか。それを聞いて安心したよ。父さんも母さんも、これからも応援してるからな」「そうよー。困ったことがあったら、いつでも連絡してらっしゃい」「うん! 二人とも、ありがと!」 やっぱり、家族が味方っていいな。小説家って孤独(こどく)な職業だけど、こうして支えてくれる人達がいるから「私、一人じゃないんだ」って思える。それってすごくありがたいことだと思う。「――そろそろお昼の準備しなきゃ」 母が壁(かべ)の時計を見て言った。時刻は十二時五分前。あれだけのアルバムを見て、両親に話を聞いていたら、もうそんな時間になっていたのだ。「チャーハンとスープでいい?」「うん。――あ、手伝うよ」 母と二人で台所に立つのもお正月以来だ。でも、独(ひと)り立ちしてからずっと自炊をしているから(たまに手抜きで外食やテイクアウトも利用するけど)料理の腕は日に日に上達している……はず。 親子三人で食べる久しぶりのゴハンは、楽しい両親のおかげで賑(にぎ)やかだった。 お昼ゴハンが済むと、私は後片付けを手伝ってから実家を後にした。「今日はありがと。慌ただしくてゴメンね。またゆっくり来るから」 出がけに玄関まで見送ってくれた両親にお礼を言うと、母に逆に謝られた。「こっちこそ、大した手伝いもできなくてゴメンね。美加ちゃんによろしく伝えてね」「うん。伝えとくよ。じゃあまたね!」

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     ――麦茶のグラスを置くと、私はアルバムの山を抱えてソファーに戻った。「重いだろ? 父さんも手伝おうか」「あっ、ありがと。助かるよ」 父にも手伝ってもらって、全部のアルバムをソファーに運び終えた。「ゴメンね、お父さん。狭くなっちゃたけど……」 ソファーの上をほとんどアルバムに占領(せんりょう)されてしまい、端っこに追いやられてしまった父に、私は申し訳ない気持ちになった。「いいって、気にするな。父さんはカーペットの上にでも座ってるから」「うん……、お父さんがそれでいいなら」 この家の主(あるじ)は父なんだけど、本当にいいのかなあ?「――さて、どれから見ようかな」 アルバムは小・中・高校・大学の卒業アルバムからポケットアルバムまであり、卒アル以外はいつ撮(と)られた写真かすぐに分かるように背表紙にラベルシールが貼られている。 ここはやっぱり年齢順でしょうと、私はまず幼い頃の分を開いた。「わあ、懐(なつ)かしいな。私、小さい頃ってこんな感じだったんだー」 お宮参り、お食い初(ぞ)め、初(はつ)節句に七五三。保育園の入園式にお遊戯(ゆうぎ)会。何かの節目(ふしめ)や行事のたびに、私の両親はフィルムのカメラやデジカメで私の写真を撮ってくれていた。「――あ、コレ……」 大学時代の写真は半分以上、潤との2(ツー)ショット写真だ。私が自分のスマホで自撮(じど)りした写真をコンビニプリントしたのだ。 その中には、成人式の時に二人で撮ったものもある。潤と別れる数ヶ月前の写真だ。アイツと二人、こんなにいい表情(かお)をして笑っていられた時期もあったんだなあ……。「――奈美、少しは参考になった?」 大学の卒アルまで見終えると、母がそう訊いてきた。「うん。おかげで私、自分がどんな人間なのか客観的に分かった気がする」 自分自身を第三者的な目で俯(ふ)瞰(かん)する機会なんてめったにないから。この仕事を通じていい機会をもらえたと、原口さんに心から感謝したい。 ――そうだ! ちょうどいい機会だし、両親に改めて訊いたことがないからこの際訊いてみよう!「ねえ。お父さんとお母さんから見て、私ってどんな子だった?」 クッションを抱き締め、私は初めて両親を〝取材〟した。――ノートと筆記具を出そうかとも思ったけれど、両親相手にそこまでするのは大げさかな、と思った

  • シャープペンシルより愛をこめて。   6・伝えたい想い Page2

    「――お茶が入ったわよー」 母がお盆を持って居間に来た。そして自分と父の前には湯呑(の)みを、私の前には冷たい麦茶が入ったグラスを置く。私が猫舌だということを、ちゃんと覚えていてくれたらしい。「ありがと、お母さん。――あの、アルバムも。大変だったんでしょ?」「娘がいい作品書くためだったら、親ならこれくらいの協力惜しまないわよ。ね、お父さん?」 母に水を向けられ、父も頷いた。「ああ」 私っていい両親を持ったなあ。――そうしみじみと実感しながら、私はグラスの麦茶を飲んだ。「――今日はゆっくりしていけるのか?」「そうよ、奈美。今晩泊まっていったら?」 その両親が、矢(や)継(つ)ぎ早(ばや)に訊ねてくる。「ゴメン、二人とも! 泊まっていくのはムリなの。明日はバイトあるし、今日も午後から予定があって……」「予定って、もしかしてデートか?」「あら! あんた、そんな男性(ひと)いるの?」「いないよ、そんな人っ!」 私は麦茶を噴きそうになった。確かに好きな人はいるけれど、原口さんはまだそんな人(=(イコール)デートする相手)には当てはまらない。――私の中では〝予定〟もしくは〝候(こう)補(ほ)〟ではあるんだけど。「そうじゃなくて、友達に会いに行く約束してるの。――中(なか)野(の)美加(みか)ってコ、覚えてるでしょ?」「ああ、美加ちゃんね? 覚えてるわよ」 美加は私と小・中・高校まで一緒だった幼なじみの親友で、この家にもよく遊びに来ていた。「美加ね、この春から新宿(しんじゅく)の結婚式場で働いてて。今日も出勤してるらしいから、職場まで会いに行くことになってるの」 彼女は高校を卒業後、「ウェディングプランナーになる」という夢を叶えるべくブライダル関係の専門学校に進み、先月晴れて今の職場に就職できたのだと、本人からLINEをもらった。「そうか……、残念だ。久しぶりに帰ってきたと思ったのになあ」「そうねえ。――でも早いものね。美加ちゃんももう社会人なんて」  ……そっか。私の同級生だった子はほとんどみんな、今は社会に出てるんだ。私みたいに非正規だったりもするけど。「うん……。――あー、でもお昼まではこっちにいるから。アルバム見せてもらって、お昼ゴハン食べてからここ出るね」 親子三人揃ってゴハンを食べるのも久しぶりだ。普段は一人淋しく食事

  • シャープペンシルより愛をこめて。   6・伝えたい想い Page1

     ――土曜日。私は母に電話した通り、墨田(すみだ)区内に建つ実家に帰った。 この家は二階建ての建(た)て売(う)り物件で、そんなに立派じゃないけれどちゃんとした父の持ち家だ。作家デビューするまでの二十年ちょっと、私はこの家で育ち、大学にもこの家から通(かよ)っていた。 そして、洛陽社からの大賞受賞の連絡を受けたのも、この家でだった。「――ただいま、お母さん!」 帰るのは実に数ヶ月ぶりとなる実家の玄関で、私は出迎えてくれた母に笑顔で言った。 前に帰ってきたのは今年のお正月だった。バイト先である〈きよづか書店〉もちょうどお正月休みで、その頃連載の仕事(今月出た新作の一コ前)を抱えていた私は実家に書きかけの原稿を持ち込んで、自分の部屋で仕事をさせてもらっていたっけな。「お帰りなさい、奈美。お父さんなら居間(いま)にいるわよ」「うん。ありがとね」 私は居間に向かう。母は「お茶でも淹れてくるわね」と台所に消えた。 母は四十八歳。今でも現役(げんえき)で高校の国語教師をしている。父は母の二歳年上で、大学時代の先輩後輩らしい。社会に出てから再会して、付き合い始めたんだとか。「――お父さん、ただいま。久しぶりだね」 居間のソファーに座ってTV(テレビ)を観(み)ていた父は、私が声をかけるとリモコンでTVの電源を落とし、嬉しそうに顔を綻(ほころ)ばせた。「お帰り、奈美! 元気そうで何よりだ」「うん、元気だよ。――ごめんね。お休みの日に、しかもこんな朝早くに」 今は朝の九時半。父も本当はもっとゆっくり寝ていたかっただろうに。私のために早く起きてくれたのだとしたら、ちょっと申し訳ない。「いやいや、気にするな。父さんがな、お前が久しぶりに帰ってくるって母さんから聞いて、楽しみで早く起きちまっただけだ」「そうなんだ?」 私もソファーに座った。居間のカーペットの上には、私がお母さんに頼んであったアルバムが山のように積(つ)んである。大小も、厚みもさまざまだ。「――ああ、それな。さっき母さんと二人がかりで家の中ひっくり返して見つけてきたんだ。大変だったぞ」「そっか……、ありがと。感謝します」 父とは、進路を巡(めぐ)って対立したこともあった。でも私は、父を恨(うら)んだことは一度もない。今思えばあれは、娘が心配な親心からだったんだと思えるから。

  • シャープペンシルより愛をこめて。   5・新たな一歩 Page14

    「――やっぱり、私の生(お)い立ちとか作家デビューまでの経緯は書くべきだよね。あとは恋愛遍歴(へんれき)と、私がいつもどんな風に原稿を書いてるか……かな」 書きたいことの大まかなテーマを、呟きながらプロット用のノートに箇条(かじょう)書きでメモっていく。ここからさらに取材を重ね、プロットを作るのだ。 原口さんに電話で「どんなことを書けばいいですか?」と訊いたら、彼の答えはこうだった。『内容は先生にお任せしますので、お好きに書いて下さい。……ああでも、一応恋愛モノメインのレーベルなんで、恋愛絡みの内容を入れて下さった方が……』 ―― そう言われても、二十三年間ろくな恋愛をしてこなかった私には、読者が喜んで飛びつくようなトピックスがほとんどない。 となると、読者の興味を引く内容は筆者である私自身の私生活や創作にまつわるエピソード……だろうか。 私がシャープペンシルで執筆していることは、実は読者さん達にはあまり知られていない(由佳ちゃんみたいに個人的に親しい間(あいだ)柄(がら)の人は知っているけれど)。今どきの若者でもある私がこんなアナログ作家だと知ったら、読んでくれた人はビックリするだろうか……?「そうだ!」 そう思った時、このエッセイのタイトルがフッと降(お)りてきた。 見ただけでネタバレになりそうなタイトルだけれど、これ以外にピッタリはまるタイトルはないんじゃないかっていうくらい、内容にマッチしていてしっくりくる。「うん、いい! タイトルはこれに決定」 私は独断(どくだん)だけで決定したばかりのタイトルを、メモ書きのページの冒頭(ぼうとう)に書き込んだ。 本当は原口さんと相談してから決めるべきなのかもしれない。でも、それをしなかった理由は、このエッセイを彼へのメッセージにしようと思っているから。 これを書き上げたら、原口さんに告白しよう。――私はこの仕事を引き受けた時から、そう決心していたのだった。

  • シャープペンシルより愛をこめて。   5・新たな一歩 Page13

    『――分かった。いいわよ。今度の土曜日、待ってるから。お父さんも奈美に会いたがってたから、二人で待ってるわね』「うん! ありがとね、お母さん!」 通話を終えると、私はスマホとバッグを手に部屋に入った。 着替えて夕飯(ゆうはん)を済ませたら、久しぶりに電話してみようと思っている友達が一人いる。高校を卒業(で)てから進路が別れ、しばらく会っていないのだ。「――さて、今日の夕飯は何にしよう……」 楽なスウェットの上下に着替えた私は、キッチンで冷蔵庫を開け、中身をチェックし始めた――。   * * * * ――翌朝の出勤前、原口さんがわざわざマンションまで原稿用紙を届けてくれた。 慌(あわ)ただしい時間だし、朝早くに来てもらうのは(色~んな意味で)彼には申し訳ない。来てもらうのは夕方でもよかったけど、原稿用紙は早く受け取った方がモチベーションが上がる。「とりあえず、予備の分も合わせて三百枚お渡ししておきます。足りなくなったらまた僕にご連絡下さい」「〝足りなくなる〟ってことはないと思いますけど。私の場合は」 私の場合、確かに〝手書き〟だけど使っているのはシャープペンシル。修正や書き直しの時にも消しゴムで消して書き直せるので、〝間違えたら丸めてポイッ〟はないと思う。「まあ、僕もそう思いますけど念のため。余(あま)った分は次の作品の執筆にも使えますから」「そうですね。ありがとうございます。じゃあ、執筆頑張ります!」 私は作家の〝生命(いのち)〟ともいえる三百枚の原稿用紙を受け取り、これから洛陽社に出勤するという原口さんを玄関先で見送った。 一枚一枚に「巻田ナミ」と名前が入っている洛陽社の原稿用紙は、私の作家としての誇(ほこ)りだ。私専用の、他の人は使うことを許(ゆる)されない原稿用紙だから。   * * * * ――その日から土曜日までの数日間、私はバイトに励みながらエッセイの内容について構想(こうそう)を練(ね)り始めた。 書きたいことは山ほどあるけど、それを原稿用紙二百五十枚(十万字)の中に収める必要があるのだ。 何より、この仕事は新レーベル〈パルフェ文庫〉の編集長となる原口さんのスタートを飾(かざ)る仕事だから、そういう意味でも絶対にいい作品(モノ)を書き上げたい。そう思うのは、もちろん物書きとしてのプライドもあるけれど、彼への恋心が

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